今回も続けてアームン・リーの音声動画を取り上げてみました。調査に関するおもしろい考察だと思います。
私自身、調査をすることに対して疑問を感じていました。世の中のさまざまなことに嘘があることがわかっても、それについてインターネットなどでそれなりに調査したときに、確実な答えは得られない。それで、調査をするということ自体に限界を感じるようになっていたんです。たとえば、過去に起こったとされる事件が本当に起こったのかどうかという議論があった場合に、インターネット上で読む情報にしても、誰かの動画にしても、「これは確実に 100% 真実だ!」と言えるものは見つからない。「どれが正しい情報なのか」という問題ではないのです。誰も、少なくとも「騙されている側」にいる私たちには、本当の真実を知るすべはありません。じゃあ、どうすればよいのか。そんなことを考えているときにこの音声動画を聞いて、新たな視点が得られたような気がしました。
これには、注目に値する考えがいくつも含まれています。まず、言葉自体が呪文であるということ。呪文は英語で spell ですが、これは文字を綴るという意味の動詞でもあります。その関連性は明らかだと思いませんか。私たちが意識するかしないかにかかわらず、言葉の呪文としての効力がある。その威力を過小評価することはできないように思います。それにしても、すべての人々が読み書きをできるようにするという目標が、すべての人々を言葉という呪文の執行人にするためのものであったとは…。確かに学校では、教科書に書いてあることが事実であるとして教えられ、法律や規則に従って生きることの大切さを教えられます。教育がすべて間違っているとは言いませんが、教育が人々をコントロールするための手段として使われていることは、誰の眼にも明らかです。
そして、アームン・リーが調査と熟考、情報と直感を組み合わせることを推奨しているところが非常におもしろい。「熟考」は英語の contemplation を訳したものですが、この言葉は、深く真摯に物事を考えるという意味で、瞑想や観想のような意味合いもあるかと思います。そして、真実は見つけるものではなく、「“気づき” が個人を見つける」 (the realization will find individuals) という表現は深いですね。“気づき” は realization の訳として採用したのですが、これには突然のひらめき、気づき、悟りというような意味合いがあります。特にそれについて考えていたわけではないのに、何かが突然ひらめいて「知る」ことができたというような経験は誰にでもあると思います。そしてそういう気づきは、自分の中で疑問の余地のない、確信のあるものだったりします。それが、“気づき” が自分を見つけてくれた、という感覚なのでしょうか。このような気づきが直感を使っていることになるのでしょうか。この辺のことは、以前に訳した動画でトム・コーワンが話していた State of Wonder に共通するものがあるように思います。
それにしても、「すべての力の中点」 (in the middle point between all of the forces) というのはいったいどこなのでしょうか。そもそも彼の言う「真実」とは何なのでしょうか。この「見せかけの世界」を超えたところにどんな人生があるのでしょうか。私はそれを見つけたい、その真実に自分を見つけてもらいたい、と強く思っています。