[字幕動画] トム・コーワン: 「どうしてだろう?」と思いを巡らすことの不思議な力

投稿者: | 2024-08-29

この動画は、トム・コーワン医師が去年のサンクスギビングの頃に配信した動画から切り抜いたものです。トム・コーワンの考え方、物の見方、生きる姿勢などには学ぶことがたくさんあるのですが、これを聞いたとき、絶対字幕を付けて出したいと強く思いました。ただし、これを訳すにあたって、wonder という言葉をどうやって訳すかでかなり悩みました。wonder を一言で的確に表現する日本語が思いつかず、いろいろ悩んだあげく、英語で残したり、ちょっと説明調になってしまったりして、翻訳としてはぎこちないものになってしまいました。でも、コーワン医師の意図することは伝わるのではないかと思います。wonder の意味は辞書で見ていただければわかりますが、この動画でコーワン医師が使っていた意味としては、「これはなぜなんだろう?」と疑問に思うこと、“知らない” という状態であれこれと思いを巡らせること、といった感じでしょうか。wonder には「驚異」や「摩訶不思議なこと」というような意味もあり、ピラミッドやマチュピチュなどは Wonders of the World などと呼ばれます。コーワン医師の勧めるこの wonder のプロセスでは、不思議な方法で答えが返ってくると言っていましたが、このプロセス自体が wonder、つまり不思議な魔法のようなものだという意味合いもあるかもなあと、勝手に解釈しています。

コーワン医師の言っていることには、とても共感します。ここ数年、ウイルスの存在に始まって、自分がこれまで信じてきた多くのことがどうも正しくないらしいということがわかってきました。いろいろ調べたり、ポッドキャストなどでいろんな人の話を聞いたりしていて思ったのですが、「これは真実ではない」と言うことはかなり確信を持って言えても、「これは確実にこうだ」と言えるものは少ないんです。科学にしても、歴史にしても、過去に起こった事件にしても、本当に真実を知ることは私たちのような一般人にはほぼ不可能なんです。一般に提示されている説明は「真実ではない」と言った後に、それに代わる説を唱えて「これが真実だ!」と主張する人もいます。でも、それらの説も推測の領域を出ていないものが多い。それに、ある説を信じてしまうと、そこで思考が止まるような気がします。それによって思考に壁ができてしまって、思考が制限されるような気がするのです。それでは、「ウイルスは存在するんだ!」という考えに固執するのとさして変わりません。コーワン医師が推奨する wonder の状態に身を置くと、確かに思考に隙間ができるというか、ゆとりができるというか、もう少し柔軟性がでるような気がします。どんな考えも、何も検討せずに拒否することはせずに、「そんな考え方もあるんだ、おもしろい」と思って聞き、自分なりに検討して「これは違うな」とか「そういう可能性もあるかもしれないな」とか判断して、可能性があると思うものは「どうなんだろうな」と思うにとどめておく。私はコーワン医師のように不思議な方法で答えが返ってくるというのを体験したわけではありませんが、確かに、以前の自分だったら思いつかなかったようなことを思いついたりすることがあるように感じます。

「ウイルスはいない」と言うと、必ずと言っていいほど「じゃあ、どうして病気になるんだ?」という質問が返ってきます。そして、それに代わる、その人に納得がいく説明を提供できなければ、受け入れてもらえない。でも、「ウイルスの存在は証明されていない」ということは断言できても、じゃあどうして人が病気になるかという質問に対する明確な答えはありません。そもそも人間は一人ひとり違うのですから、人によって原因は違うでしょうし、一人について考えてみても、さまざまな要因が絡み合っているので、一つの要素を指さして「これが (これだけが) 原因だ」と言えるわけではありません。考えてみれば、一つのもの (たとえばウイルス) が世界中の人が病気になる原因だというのは、他のさまざまな要素を無視した、あまりにも短絡的な説で、それで説明できないことがたくさんあり、理にかなっていないのです。でも、科学のある仮説を覆すには、それに代わる仮説が必要だと思っている人が結構います。でもそれこそが非科学的な考え方だと思います。たとえば何かの機械が調子が悪くなったとして、その原因として考えられることがいくつかあれば、それを一つ一つ調べて、原因でないと確認できたものはその時点で除外するでしょう。「本当の原因が見つかるまでこれが原因と想定して処置を施す」なんてことはしませんよね。でもなぜかこと科学の理論に関しては、代替理論が必要だと思われている。実験して仮説どおりの結果にならなければ仮説は反証されたことになるはずなのですが、それをわかってもらうのは難しい。それは、コーワン医師が言うように、“知らない”という状態はあまりにも居心地が悪くて、みんなそれに絶えられないからなのかもしれません。

私も自分にそういう傾向があることは感じます。たとえば映画を見ていて、結末がはっきりしていない、結局どういうことだったのかわからないようなものは、後味が悪くてもやもやして、この映画は好きじゃないと思ってしまう。でも、人生そんなにはっきりくっきり決着がつくものは実は少ないように思います。「どうしてこんなことが起きたのか」というような質問は自然だと思うし、その答えが欲しいと思うのも当たり前でしょう。でも、そこで「これだ!」と思って、それを信じて、安心して気持ちが落ち着いたとしても、それが真実でなければ、その安心感は偽物であるわけです。「私はワクチンを打ったからこれで安心」というのは、明らかに偽の安心感で、それによって害が起こる可能性のあることは簡単にわかります。そして、そう信じてしまうことで、それに関してはそこで思考が止まる。私はそれによる害も大きいのではないかと思っています。

“知らない” という状態は確かに居心地が悪いし、何かにすがりつきたくなるのは確かです。でも、その “知らない” という事実を受け入れてその状態に身を置いていると、自分のアンテナがいろんな方向に向いて、その感覚が研ぎ澄まされてくるように思います。そして逆に、何かを「これが確実な真実だ」と思うことが、自分を縛る足かせに思えてきます。世界で私たちに向けて行われているプロパガンダの大きなの問題の一つは、私たちの思考を狭め、画一化していることだと私は思っています。それから脱却するために、コーワン医師の提唱するこのプロセス、 “知らない” という状態に身を置くことが役立つのではないかと思います。

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