今回のエピソードでは、自尊心について話しました。エピソードの中で話しましたが、幼稚園の頃によく遊んでいた子が、私のことを嫌いだと言っていたという記憶があって、それが大きな影響を及ぼしたことは間違いありません。今となっては、本当にそういう話を聞いたのかすら確信が持てません。でも、おそらくその “記憶” を引きずっていたから、嫌われていると思っていて、それを感じさせるような態度を誰かにとられるのが嫌で、自分から人にアプローチすることができませんでした。友達に対してですらです。自分のような人間は好かれない、と勝手に決めていたわけです。それで逆に、人を嫌ってはいけないという思いも強くあって、クラスの中であまり友達がいなさそうな人を “助けよう” と努力したことすらあります。今思えば余計なお世話だったと思うし、そもそも自分が特に好きでもない人と一所懸命友達になろうとするなんて、不誠実だったと思います。
社会の中で、こういう風に振る舞うべきだとか、こういう人間に価値があるとか、そういうイメージが作り上げられていて、多くの人は自分はそれに至らないと思って生きているのではないでしょうか。でも、エピソードの中でも言ったように、私たちはこの世界に存在しているだけで、価値があるのだと私は思っています。この “価値” というのは、社会の中で役に立つとか、何かを達成したとか、人を助けたとか、そういう普通に社会で評価される価値のことではありません。説明するのが難しいのですが、もっと純粋な、もっと根本的なレベルでの “価値” です。ある意味、私が子供の頃に思っていた、「私が存在するという事実が誰かに影響を与えている、私がいなくなることですべてが変わる」というのは言い得ていると思います。私は子供の頃から、「バタフライ効果」という概念が好きで、本当に小さな変化が、世界のどこかでどんな変化を起こすかわからないと今も思っています。だからそういう意味では、私という存在自体が、この世界そのものに影響を与えているわけです。そういう純粋な “価値” があることを、私はどこかで知っているような気がします。特に何か理由があるわけではなく、純粋に喜びを感じる瞬間があります。そういう風に思える瞬間はまだまだ少なくて、自分の中に植え付けられている価値にとらわれることがよくあります。でも、それも自分の人生の道なのだと思います。そういう気持ちも受け入れながら、もっと純粋な “価値” を感じられるようになりたいと思っています。
[2025 年 12 月 14 日追記]
記事を書くのがすっかり遅くなってしまいましたが、エピソード 7 では、エピソード 6 に対してもらったコメントに答えるものになったので、ここに追加します。
コメントは「人間は商品ではない、価格を付けられるものではない」というものでした。それはもっともな意見だと思いました。価値と言うと、どうしても経済的な意味合い、価格と結びつけてしまいがちです。でも私は、エピソード 6 に関して上に書いたように、人間は存在するだけで価値があるのだと思っています。そして、この世に生まれてくる存在は、何らかの役割または機能があるのだと思っています。エピソードの中では蚊を例に上げましたが、細菌などの微生物も良い例だと思います。微生物は、必要な環境に現れて、そこにあるものを分解する働きがあるように思うのです。そういう、人間にもはっきりわかるような「役割」や「機能」を持った生物であれば、この世に存在する意味もわかりやすいかも知れません。人間は、この世界を壊しているかのように言われますが、人間には人間自身には理解できないような役割があるのではないかと思っています。そして、これだけ多種多様な人間がいるということは、個人個人にも存在意義があるはずです。つまり、すべての人に、この世に居場所があるということです。私はそう思っています。
そういう風に思っていても、社会の中における「価値」というか、人の評価を気にして、自分で自分を批判してしまいます。そのために不安になったり、だめだと落ち込んだりすることがよくあります。社会で言われる価値が作り上げられたもの、単なる概念であって本質的でないものだとわかって、ある程度は解放された部分もあるのですが、自分で自分を責める癖がなくなりません。そういう思いに囚われていると、自分の潜在的な力、自分の可能性が発揮できず、先ほど書いた、真の意味での「役割」や「機能」も果たしきれないのではないかという気がします。でも、自分の価値を一所懸命感じようとしても、またしても社会の中で言われる価値に囚われてしまうような気がします。価値があるとかないとか、そういうことは考える必要がないことなのかもしれません。自分がこの世に存在しているのだから、ただ生きていくだけでよいのかもしれません。