最近、AI が話題に上ることがとても多くなった気がします。ChatGPT が登場してずいぶん話題を集めましたが、この頃の AI の発展は驚くべきものがあります。最近の AI はニュース記事を書いたりするだけでなく、詩を書くとか、絵や音楽を生成するとか、クリエイティブな領域にまで応用されるようになっているようです。3 月に米国の有識者が AI が社会にもたらす可能性のあるリスクを考慮して AI の開発を 6 ヶ月間停止すべきだ、という公開書簡を出したなんて話もありました (参考記事)。その後 AI の開発が停止されたとという話はないですけど (そもそも、6 ヶ月停止したからって何が変わるわけでもないと思いますけど…)。
翻訳は昔から、自動的にできないかということが模索されてきた領域だと思います。自動的に翻訳するというアイデア自体はかなり昔からあったようで、コンピューターを使った機械翻訳に関しては 20 世紀の中頃から開発が始まっていたようです。サイエンス・フィクションでも、たとえばスタートレックでは、異星人間のコミュニケーションは万能翻訳機で可能だという想定になっていましたし、『銀河ヒッチハイク・ガイド』でも異星人間のコミュニケーションを翻訳をしてくれるバベル・フィッシュなる魚が登場していました。確かに、そんなものがあったら便利ですよね。
翻訳業界で最初に実用的に使われるようになったのは、コンピューター支援翻訳 (Computer-Assisted Translation: CAT) でしょう。これは、原文と翻訳をデータベースに保存し、同じ原文、または似たような文章が出てきたときに、以前の翻訳を使い回すことのできる技術です。用語集も組み込めるのでとても便利。マニュアルのように同じような文章が何回も出てくる文書や、頻繁に改訂されるような文書で特に威力を発揮します。この技術もだんだん進化していて、数字が違うだけだったら自動的に置き換えてくれるとか、文節レベルで一致しているものを提案してくれるとか、だんだんと賢くなってきています。
一方で機械翻訳のほうは、だいぶ前から開発が進められてきたのにもかかわらず、ずっと長いこと使い物になりませんでした。「機械翻訳にかけてから直すぐらいなら、最初から自分で訳したほうが楽」というのが翻訳者の共通の見解だったと思います。それが、5 年ぐらい前だったでしょうか (私が気づいたのがその頃ということで、もっと前からだったのかもしれません)、気がついたらいつの間にか「使える」ものになっていたのです。一般的にも、Google 翻訳を使って日本語に訳されていないウェブサイトを訳して読むなんてことも気軽にできるようになっています。
私は機械翻訳の技術的なことはよくわからないのですが、おそらく CAT の技術を融合して、人間が訳したものや、機械翻訳の出力を人間が直したものをデータとして取り込んで、機械翻訳を訓練していっているのかなと推測しています。今では、特に企業が自分の会社の内容のものに特化して機械翻訳を訓練している場合などは、かなり質の高い翻訳が出てくるようになっています。文書の内容や用途によっては、機械翻訳にかけただけで OK というケースもあるでしょう。
今産業翻訳の世界では、MTPE (Machine Translation Post Editing) といって機械翻訳にかけたものを編集するという仕事が増えています (そのおかげでレートが下がっているのが現実)。分野にもよるとは思いますが、MTPE を嫌だと断っていたら、仕事があまりないという状況になる可能性もなきにしもあらずです。翻訳の仕事はなくなるかもしれないという危惧も、「まさか」と切り捨てられない感じになってきました。ただ今の段階ではまだ、翻訳の質を保ちたいと思ったら、人の目を通さずに出すことはできないというのが私の感想です。誤訳もあるし (まったく反対の意味に訳していることすらある)、用語の訳し方に一貫性がなかったり、タグが入っていたりすると変なふうになったり、数字すら間違っているのも見たことがあります。それに、人間だったら「これはスペルミスだな」と簡単にわかるようなものも、機械翻訳は正直に字面通りに訳します。だから、機械翻訳にかけたものを読むときは、そういう間違いがある可能性もあることを踏まえて読んだほうがいいかもしれません。そういう意味では、人間の翻訳者も間違うので、人間が翻訳したものだから大丈夫だということではないですけど…。それでも、外国語を読めない人が、日本語では手に入らない情報にアクセスできるようになったことは、本当に素晴らしいことだと思っています。日本語の情報は絶対量が少ないですから、機械翻訳を大いに利用して情報を得ていただいたらよいと思います。
こういう技術を使って翻訳するようになって、私は少なからず危機感を持ちました。それは、翻訳という仕事が機械に奪われるという危機感ではなくて、自分自身の翻訳力に関してです。これは CAT ツールだけを使っていたときにも感じたことがあるのですが、何もないところから一から訳すのが苦痛に思えることがある。そしてもう 1 つ、もう既に訳文として出来上がったものを見てしまうことで、それに囚われてしまって、そこから抜け出して読みやすい日本語にする方法が思いつかなかったり、さらには翻訳の不自然さに気づかなくなってしまったりする可能性もあるのではないかと思うのです。私はこれはちょっとやばいなと感じています。翻訳は、産業翻訳であっても、ある程度のクリエイティビティが必要な作業だと私は思っています。でも、今のように機械翻訳が主流になってくれば、翻訳の中でクリエイティビティを駆使する必要性がだんだんとなくなってきて、そういう能力がだんだん退化していくのではないか、という気がしてなりません。
これは、翻訳に限った話ではないし、今に始まったことでもないでしょう。もっとずっと昔から、おそらくテレビという媒体によって、人間の思考能力が大きく退化してきたのではないかと思います。そして、パソコン、インターネット、スマートフォン、SNS が次々と登場してきて、それが加速度的に進んでいるように思うのです。自分で考えなくてもすぐそこで調べれば答えが得られるから、考えようとしなくなる。考えることがいやになる。考えようとしないから、考える力が衰えてくる。そうしているうちに、与えられたものを何でも受け入れてしまうようになる。これはもちろん私がただ感じたことで、本当にそうなっていると言えるわけではないのですが、自分の中にそういう傾向があったということを最近ひしひしと感じるようになって、これはやばいと思っているわけです。コロナ騒動に多くの人が引っかかってしまったのも、こういうことが 1 つの要素としてあったのではないかと思うのです。
そして、なんだか人間よりも AI の方が優れているのだ、というような印象を与えられているような気がしてなりません。AI の方が病気の診断を正しくできたとか、司法の判断も AI にさせたほうがいいとか、ビジネスの世界でも AI に何かを解析させて判断を下させるとか、いかにも AI は万能で、何でも人間の代わりにできるんだ、いや、「人間は間違いを犯すから、AI にやらせたほうがいいんだ」というように思わされているような気がするんです。確かに、AI は計算能力に優れているし、膨大な情報を処理してそこからパターンを見つけて、それを応用するようなことができます。でも、だから何でも AI にやらせたほうが良いのでしょうか。AI は人間を「超える」のでしょうか。
そもそも、人間の頭脳はコンピューターのようなもので、人間の知能をコンピューターで再現できるという考え方自体が間違っていると思うのです。人工知能というけれど、本当に「知能」なのでしょうか (これを議論しようとしたら、知能とは何かを定義するところから始めなければいけませんが…)。
AI は所詮はコンピューターのアルゴリズムです。どんなにすごいことをしても、人間と会話しているような答えを返してきたとしても、プログラムされたアルゴリズムに従ったことしかできません。人間のようになることは、どんなに進化してもありえないんです。それが可能かのような印象を与えられているような気がしますが、絶対にありえないことです。人間には感情があります。クリエイティビティがあります。イマジネーションがあります。直感や第六感があります。AI は、どんなにそういうものがあるかのように見せかけることができたとしても、そういうものを持つことはありません。AI が、たとえばベートーベンの交響曲第 9 番を聞いて感動することはありません。魂のこもった、人の心を動かすアートを作ることもできないと思います。誰かに対して、愛を感じることもありません。
2 つの選択肢で迷ったときに、その 1 つの方がどんなに条件がよくても、周りの人がみんなそっちのほうが良いと言ったとしても、もう 1 つの方にどうしても心が惹かれるというようなことはありませんか。どんなに良さそうに見えて、論理的には完璧なものでも、何となく嫌な感じがするなんてことはありませんか。そういう感覚は、間違っているのでしょうか。劣っているのでしょうか。AI に判断させたら、コンピューターに入力された情報を解析して、自分の感覚に反する答えを出してくることもあるでしょう。それに従うことはできますか。
今の人類の危機は、AI がもたらすものではなくて、人間が人間らしさを失ってきていることだと思うのです。もともと人間の生活を便利にしたりするために人間が使うことを意図して開発された技術が、逆に人間の生活を支配するような状況になってきていて、それを人間も受け入れて従っているような気がするのです。だんだんと一人ひとりの思考の幅が狭くなって、みんなが同じような考え方をするようになって、個性が失われてきている気がするのです。人々がそういう風になったほうが、コントロールしやすいでしょう。マインド・コントロールが行われていることはよく語られますが、それを私たちが受け入れてしまっているからコントロールされてしまっているわけです。
もし、今私たちに押し付けられている現実を嫌だと思って、それに抵抗したい、抜け出したいと思うなら、今すぐ一人ひとりができることは、人間らしさを取り戻すことではないかと思っています。AI にはできない、人間ならではのことをするんです。クリエイティビティやイマジネーションを広げられるようなことをする。どんな小さなことでもいいんです。別にアートを作ることだけがクリエイティビティではないと思うので。ちょっとした落書きをするとか、くだらない夢想をするとか、そんなことでも。本を読むことだっていいと思うんです (座ってじっくり本を読むことが苦痛になっているのも、危ないことだなと思っています)。映像がないから、情景を思い浮かべるのに想像力を使うことになると思うので。それと、考える力をつけること。「あの俳優の名前、なんだったっけ?」とか思ったときに、すぐにネット検索して答えを見つけるのではなく、思い出そうとがんばってみるとか、そんなことだけでも違うと思うのです。そうやって考えているうちに、連鎖的に他の、ずっと忘れてたことを思い出したりすることもあったりします。そして、「あれ、おかしいな」とか、ふと感じた気持ちを大事にすること。私は直感があまり冴えてない人間ですが、人間の直感や第六感は本当に優れているのだとしみじみ思うようになりました。今の社会では、ほとんどの人の直感が鈍っていると思いますし、そういうものは無視するように教えられてきていると思います。そういう感覚を、少しずつでも取り戻すようにしたほうがよいと思うのです。
これは、自戒のためにも書いています。そして、人間らしさを取り戻す一貫として。動画に字幕を付けたりするのも、こうやって自分の考えをまとめて書くということも、私なりの抵抗です。