人はどうやって何かを信じるようになるんだろう?
私は前からそういう疑問を持っていました。だからといって、それに関して科学的な研究を調べたわけでも、哲学の本を読んだわけでもありません。ただ自分で勝手に、自分の理解のために考えていただけです。
特にコロナ騒動が始まってから、その疑問を考えることが多くなりました。主流メディアや友達の言っていることと、私が入手している情報や認識との格差があまりに激しかったからです。まるで 2 つの現実の中を生きているような感覚。そして、家族や友達に説明してもわかってもらえない…。これは私だけの経験ではないと思います。
人はどうやって何かを信じるようになるのかは、考えたところでわかりようがありません。でも、信じるということに関して、いくつか自分が思っていることを書いてみようと思います。これは私が自分の経験から、勝手に思っていることであって、単なる独断と偏見に基づく個人的な意見だということをご了承ください。
私は、自分が自分の現実を作り出しているのだと信じています。いわゆる引き寄せの法則というやつです。自分の考え、感情、信じていることによって、自分の現実が形作られる。欲しい未来を作り出す云々ということも試したことはありますし、実現された (少なくとも私にはそう思えた) 経験もあります。でも、私にとってこの考え方が重要なのは、自分に起きていることに自分が加担している、自分は被害者ではない、自分に自分の現実を変える力があると思えるようになったからです。常にどんな状況でもそう思えているわけではなくて、嫌なことがあったときに人のせいにしたい気持ちも湧いてきます。でも、そういうときは、一歩下がって「自分の中の何が今の状況を作り出しているのだろう」と自分自身に意識を向けるようにしています。もちろん、自分が自分の現実を作り出しているかどうかなんて、科学的に (少なくとも今の科学では) 証明することはできませんし、どうして自分がこの考え方に惹かれ、信じるようになったのかもわかりません。でも、それが腑に落ちたというか、しっくりと来たのです。これは私の中で大きなパラダイムシフトとなりましたし、今の自分があるのは、この考えに出会ったからだと思っています。
「自分が自分の現実を作り出すのだ」という考えが受け入れられなくても、自分の考え方次第で物事が良くも見えれば悪くも見えるというのは多くの人に理解してもらえると思います。グラスに水が半分入っていると見るか、半分しか入っていないと見るか、というやつです。私たちは、すべてのものを自分の主観というフィルターを通して見ています。同じことが起きても、そのフィルターによって感じ方が大きく変わります。完全に客観的に何かを見たり判断することは、人間には不可能です。このフィルターは、自分が生まれてからのいろんな経験を通して築いてきた思考体系に基づいています。
私たちはいろんなことを信じていますが、自分が信じていることだと認識しているものもあれば、当たり前の事実だとして受け入れているものもあります。後者は、普段意識にのぼることすらなく、自分がそれを単に信じているだけなのだと気づくことすらありません。疑問に思うことすらなく、確固とした真実と思っているわけです。細菌理論は、私の中で事実として、疑う余地のないものとして認識されていました。だから、これが単なる理論であって、証明されていないと知ったことは、私にとって「パラダイムシフト」だったわけです。
「ウイルスはいない」と何人かの人に話してみました。その考えを受け入れて調べて「本当だ!」と同意してくれた人も一人いたのですが、それ以外は無視されるか、話をそらされるか、「そんなわけないじゃん」と鼻で笑われるかでした。ウイルスの「分離」方法を説明しても、スペイン風邪のときに感染実験をしたけれど、誰も感染しなかったということを話しても、そんなの「クレージーな考えだ」とか「君はウイルス学者じゃないんだから」とか言われて、調べることもせずに拒否してくるのです。
それで思うのは、人が信じていることを変えるのがいかに難しいかということです。事実やデータを見せようが、論理的に説明しようが、関係ありません。人は基本的に自分の世界 (自分の信じていることに基づいて作り上げている世界) を変えたくない。新しい情報が入ってきたとき、それが自分の世界をそれほど乱すことなく組み込めるものであれば受け入れられるのですが、そうでなければ基本的には無視する、拒否する、怒り出す。
「当たり前の事実」として受け入れているものが、実はそうじゃないという情報は、自分の認識している世界を大きく揺るがします。「認知的不協和」が起きるわけです。人はおそらく、それを反射的に危機だと認識して避けようとする。都合のいい理由を勝手に作り出して、拒否するのです。認知的不協和が起きると、不快感を感じます。それもかなりひどい不快感。ですから、無意識にそれを避けてしまう。
その「当たり前の事実」として受け入れていたことが、自分自身の存在、社会での自分の地位などに結びついている場合、それを拒否する気持ちはずっとずっと強まると思います。自分が間違っていたと認めたくもありません。それが自分の名声を落とすことになるかもしれないし、自分自身の存在価値すら否定することになりかねませんから。そういう意味で、ウイルス学者が「ウイルスはいない」と認めることは、難しいだろうと思います。ステファン・ランカ博士は、稀有な存在ですね。
そして、人間には仲間が欲しい、グループに属したいという欲求もあります。新しい情報が多くの人が信じていることと違う場合、それを受け入れて信じることは、自分の仲間との間に摩擦が生まれる原因となるかもしれません。一人でみんなと違うことを言うのは勇気がいることです。新しい情報が世間で「狂った考え方」だとか「陰謀論」だと言われている場合、そういうレッテルを貼られたくないと思うでしょう。
自分の世界を変えるような新しい情報を受け入れられるかどうかは、まず心の中に、新しい考えを受け入れる「隙間」があるかどうかじゃないかと思います。なんらかの理由で、自分の今の世界、思考体系への執着がちょっと緩んでいるとき。自分の信じている世界に、すでに疑問を持ち始めていたとか。そして、自分自身を見つめ直すことができるかどうか。自分のあり方、生き方、ものの見方、価値観… そういったものに疑問を投げかけて、自分が知らないことは知らないと認め、もし自分が間違っていたらそれを認めて改めることができるか、その勇気があるかどうか…。
この過程で、落とし穴もあるので注意が必要です。自分が目覚めている、知っていると、驕り高ぶってしまうこと、それに固執してしまうこと。私が今回のことで思ったのは、私が体験している現実にはいくつもいくつもレイヤーがあって、本当に真実を突き止めようと思ったら、1 つレイヤーをめくったら、そこでとどまらないで、次のレイヤーをめくる必要があるのではないかという気がするのです。マトリックスの外に出ても、そこも別のレベルのマトリックスなのかもと。
「ウイルスが病気を引き起こすのではない」と知ったとき、心が軽くなるというか、広がるというか、自由になったというか、そんな感覚がありました。本当の知識というのは、心を拡張するものなんじゃないかという気がします。そして、マトリックスのレイヤーをめくっていくには、直感が大事なのではないかと思うのです。人間の頭では、すべての物がさまざまに絡み合っていることをすべて理論的に把握することは不可能だと思うのです。論理的な思考から外に出ないと、本当の意味で理解することはできないのではないかと。
私は今では、どんな情報も「へえ、そんな話があるんだ」という程度に受けとめて、特に積極的に肯定したり否定したりしなくなりました。本当のことは、わかりようがないわけですから。究極的に、自分が絶対的に本当だと確信を持って言えることは、自分という意識が存在しているということだけです。デカルトの「我思う、故に我あり (コギトエルゴスム)」です。私が今見ている現実が夢でないとも、映画『マトリックス』のような世界ではないとも、私には確信を持って言うことができません。だから、「これが真実だ、これが正しい」と主張することにどれだけ意味があるのか、と思うようになったのです。
もちろん、この間の蛇毒の話とか、「それは違うだろう」と思うようなものは情報もたくさんあります。でも、誰かの主張に対して、何の根拠もなく反射的に「そんなことあるわけないだろう」と切り捨てることはできなくなりました。その人が、私が知らない情報を持っていて、根拠があってそういうことを言っているかもしれないからです。もし自分か感情的に反応したら、それこそ注意が必要で、自分の心を見つめ直してみる必要があります。「ウイルスはいない」という話をしたときに「クレージーだ」と頭から否定してきた友達から、「そのうち地球は平面だとか言い出すんじゃないの?」と言われました。地球平面説に関しては、今の時代にバカなことを言う人がいると、前は思っていました。でも今は、その説を唱える人たちは、バカにされることをわかっているだろうにあえてそういう主張をしているわけなので、何も調べずに否定することはできないと思うようになりました。そのうち、彼らがどんなことを言っているのか、調べてみようと思っています。